Fountain of the dark forest
トラヴェール渓谷の森の中、
幾つかの「ファウンテン」と呼ばれる場所が存在する。
ファウンテンとは名の通り「泉」であるが、
そこには小さな巣箱が切り株の上などに置かれており、
中にはアブサンボトルとグラスが隠すように蔵われている。
すぐそばの深い緑の隙間からは、この森の血液とも言える濃厚な液体が、
一定のリズムを刻みながら静かに湧き続けている。
巣箱の中のアブサンをこの液体で薄めて嗜むのが
ファウンテンという場所である。
この辺りであろう。
地図に落とし込まれた曖昧な印のみを頼りに、
ただひたすら闇の中を進みファウンテンを探し続けた。
舌の両端に記憶するあの「ブルー」な味わいを思い出し、
じんわり口内が湿り始めると、あとは天蚕糸を首に巻きつけられ
闇の向こうから引き込まれているのだと無責任に言い聞かせるだけだ。
グリーンフェアリーが自転車に乗っている。
そんな紛らわしい看板の指示する方へ進んでみたが、全くのデタラメだった。
足元の緑がいよいよ深い紺色に変わり始め、青い霧が徐々にあたりを
覆い尽くすと、唐突にも不可思議な空間が我々の目の前に現れた。
ファウンテンだ。
暗闇の中、滴る水の音だけが空間のあり方を証明している。
人影はないが、この場に宿る気体の一部が騒ついて、妙に落ち着かない。
賽銭程度の小銭を箱に入れ、森の恵みとともにアブサンをいただいてみる。
もう目の前の景色は、空の重たく青い残像だけが木々の シルエットによって微かに演出されているだけだ。
口に含んだアブサンはある程度心の欲求を満たすと、
あとは頭上の木々の間に開けた空の深みへと落ちていく。
手足先端の感覚が徐々に薄れ、もはや握るグラスと掌は樹木と根のように
一体化している。
鼻から吸い込む気体は、あらゆる森の成分を濃厚に含んでいるのだろう。
液体のひとつのパートと吸い込んだ気体のパートの一つが絡み合い、
化学記号のようなものがパラパラと現れてはまた消えて無くなる。
そうして空間は少しづつ暗闇に寄り添い歪み始めた。
何杯飲んだのだろうか。
全く酔っていないわけではないがそれでも尚、呼吸や胸の鼓動、
風の動きや方角、そして時間の経過までもが鮮明に感じとれる。
いわば一種の覚醒であろう。
それは一つにアブサンが持つ特有の成分「ツヨン」からくるものだけではなく、
白濁した液体の中に微かに存在する青い油分のようなものが、月の光に照らされ
全く同系色のものとして混じり合う瞬間、腹の底から湧き出す異様な恐怖感
により冷静でいなければならないという緊張感からくるものでもある。
帰路を見失うまいと空いたグラスを巣箱に戻しその場を後にしたが、
歩くたびに数秒前の景色の残像が、歩よりも先に現れる現象がしばらくの間続いた。
翌朝、また別のファウンテンを探しに森へ向かう。
朝のファウンテンは清々しく、ハイキングをする家族達で賑わっていた。
母親の女性が一人、湧き水のそばに腰を下ろし、グラスにアブサンを注ぐ。
「一杯、二杯ならちょうどいいわ。三杯目ぐらいから気を付けなくちゃ。」
そう会話を弾ませる彼女の二杯目のグラスはすでに空いている。
三杯目を汲みに行こうとする彼女はふと我に返り、
「あらダメね。いつもこうなるのよね、グリーンフェアリーのせいよ。」
そう言って軽く微笑みながらこちらに近づき「あなたツヨンってご存知?」と囁いた。
「もちろん。」
「アブサンにはツヨンという成分が入っているの。ある一定の量を飲むと
そのツヨンによって幻覚を見たりして非常に危険なのよ。」
母国ですらまだこのような迷信話を信じている者達がいるのかと少しがっかりする気分になった。
しかし彼女の瞳は、私よりも確実に経験からくる確信を持った眼差しであり、
私の瞳ではなく、そのさらに奥の場所へ違う光景を重ね映しているように見えた。